大川橋蔵

二代目 大川橋蔵(にだいめ おおかわ はしぞう、昭和4年(1929年)4月9日 – 昭和59年(1984年)12月7日)は歌舞伎役者、のち時代劇の俳優。本名は丹羽 富成(にわ とみなり)、旧姓は小野(おの)。

柳橋の芸妓の子として生まれ、生後まもなく小野家の養子となる。養父は二代目市川瀧之丞という歌舞伎役者で、端整な顔立ちの富成を役者に育てようと、幼い頃から舞踊を仕込む。のち、知り合いだった四代目市川男女蔵の部屋子とした。
昭和10年(1935年)11月、市川男女丸を名乗って初舞台を踏む。そのとき舞台を務めていた六代目尾上菊五郎に素質を認められ、以後目をかけられるようになる。昭和19年(1944年)10月には六代目の妻・寺島千代の養子となり、その実家の「丹羽」姓を継ぐとともに、二代目大川橋蔵を襲名した。「大川橋蔵」は、かつて三代目菊五郎がいったん引退した後に舞台復帰した際に名乗った由緒ある名跡である。実子がないので養子(七代目尾上梅幸)をとったら、今更ながらに実子(二代目尾上九朗右衛門)に恵まれてしまったという複雑な家庭の事情をもつ六代目が、この名跡を橋蔵に与えて妻の養子とした意味は大きかった。橋蔵をもう一人の「菊五郎」の継承者候補とすることで、三人の子はより一層の切磋琢磨を強いられることになったのである。
この頃から六代目は体調を崩しはじめ、晩年はその芸も曇りがちになったが、それでも橋蔵は昭和24年(1949年)7月に六代目が死去するまで一つ屋根の下で暮らしを共にし、音羽屋相伝の芸のみならず、役者として、そして大看板として己がいかにあるべきかを身につけていった。
六代目亡き後は菊五郎劇団に属し、主に娘役として頭角を現すようになる。菊五郎劇団の女形としては、まず七代目尾上梅幸がおり、次に七代目中村福助が控えていたが、橋蔵はその後に控える第三の地位を占めるようになった。しかし六代目という絶対の後ろ盾を失った橋蔵は、戦後という新しい時代の中で歌舞伎界の前途や自身の将来に不安を感じていた。またこのころ、一足先に大映から銀幕デビューした八代目市川雷蔵が、自分とよく似た境遇にあった橋蔵に映画界入りをしきりに勧めていたという。先だって東映入りした中村錦之助の映画界入りの際のゴタゴタなど当時の歌舞伎界の内部事情も影響し、最終的に映画界入りに際して歌舞伎の世界と縁を切ったが、歌舞伎に対する敬意と愛情は終生持ち続け、映画転向後に自身の一座を組んで舞台公演を行う際には、必ず『お夏狂乱』『鏡獅子』『船弁慶』などの歌舞伎舞踊を中幕に出して観客を喜ばせていた。

「大川橋蔵」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。2012年8月12日9時(日本時間)現在での最新版を取得。

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